こんにちわ。
「走る必然性」って、なんだろう?
、、 最近、誰も見ていないだろう(しかも、継続的 < 断続的)ブログを書き続けて、
一体、この日常にどんな意味があるんだろう、かと深く考え込んでいるふたむらです。(うそ)
いままでは、誰にも読まれないような日記を誰かに読まれる可能性を信じて書くということに快感を感じるただのドMな自分をわかっていなかったのかもしれません。(うそらしい本当)
大型連休はずっと本を読んだり、走ったり、1日だけの横浜へのショート・ショートな旅をしました。(本当です)
実は、昨年の夏に離婚してから大きく自分の環境を私自身で変えたことが、ひとつあります。
それは、禁煙を始めたことです。
夏から秋に大いに喫煙をし、その後、昨年末の冬に、
きっぱり禁煙しました。
禁煙すると、わたしの口臭もましになる、わたしの服も臭くない、わたしのお財布の中身もなくならない。
わたしの嫌いなことが消え去って、しかも、
「幸せゾーンを広くとる」ことができるようになった気もします。
[*御手洗瑞子「ブータン、これでいいのだ」(新潮社, 2012), Chap.11, p212]
ときどき、なんでたばこやめたんですか?って、問い合わせされます、実は、
そのきっかけは「走る必然性」です。
もしかして、走ることで幸せが広くなったことってありませんか?
小学生になって、初めてクラスのみんなと走って、わぁーって興奮したり、
中学生になって、体育の時間。
なんで走らなあかんねん、このクソ寒いのに、って仲のいい友人とだらだらしゃべりながら、
グランド走り続けた貴重な時間があったり、
高校生になって、やばい、俺、かなり走れるかも、
しかも速く、長く、あぁああ、最高に気持ちいいぃ、ランニング・ハイみたいなことを経験したり、
わたしの記憶をめくるめくると、走ることは幸せゾーンを広くとる行動の過去のいいことだったんだと、
いま、わたしは感じています。
実際的に、わたしにとって幸運だったのは、
続・禁煙中の今年に入って、
海外出張があって長時間のフライトがかさなったり、
さらにその前後期間に、仕事が詰まっていてリラックスする暇がなくなったり、
などなどと、比較的、タバコを吸えない状況が続いたのも幸運でした。
もしかしたら、なによりも、運がいい、ラッキーであった、というのが、コトが起きる(禁煙を完璧にする)ときの必要十分条件であることは真実なのかもしれません。
ふと、さて、
禁煙をさせた「走る必然性」って、なんだろう?、って、、
自分に問い合わせしたくなります。
不可思議なことに、
あんなに「あぁ、煙草欲しい」という感情が、いまは全くないことが不可思議といえば不可思議だし、
一方で、そのいつも望んでいたことがきっぱりなくなるというか、そのきっぱり感を疑っていたけれど、それは本当にきっぱりできたこと、だった、、、??
この真実は如何に??という今の状況は、尚、不可思議です。
結構、本気でこういうことを望んでいました、(そんな嘘みたいな)本気をつい自らの心に疑っても信じてしまう、わたし。
わりと、そういうもんかなぁ=すごい適当に生きているわたし、
何かをやめたら(なくなったら)、 意外なことに、不可思議にも、それはそれでたいしたことではないのかもしれません。
それにしても、 禁煙したらとなぜか「わたしは具体的に走りたくなった」。
「走る必然性」って、なんだろう?
0 件のコメント:
コメントを投稿