2013年10月7日月曜日

友に捧ぐ。


「空海は、のちのかれの行蔵からもうかがえることながら、
自分の行動についてはすぐれた劇的構成力をもっていた。
かれの才能の中でいくつか挙げられる天才や異能のうち、
この点がもっともすぐれたものの一つといっていい。
かれが「三教指帰」という戯曲を書いた男だということを、ここで思い出すべきだろう。
三つの思想の比較と優劣を論ずるについて論文の形式をとらず、戯曲の形を選び、
しかも自分のモデルが登場するという表現形式をとったこと自体、
芝居っ気ということについての天成のなにかをにおわせている。
空海はこの湿沙の上で、
かれの気質と才能からすればごく自然に芝居を構成させたのであろう。
[司馬遼太郎「空海の風景(上)」(中央文庫、1978)、p273]


さらに引用、二十歳の頃、大学生のときに覚えた一行を思い出します、
それはホルヘ・ルイス・ボルヘスの一行、

「意味のあるどんな直截の陳述の一行にも、
あまた意味なき不協和音、言葉の紛糾と矛盾の魂が存在している」、と。

そして、さらに引用、
「ちょっと遠くに目をやりながら、「こういうのはどうだろう」と話を続けるような方法」、とか、 「「いっそ、さぁ」といいだすことが、なんかのはじまり」、って「ぽてんしゃる」でいっていたのは糸井重里さん。
([ほぼ日刊イトイ新聞、2013、p100-101])

昨日、わたしがもっとも大切にしている、最後のライブの現場で、
わたしが勝手に友と思っている、メレンゲのクボくんがなにも惜しむことなくわたしのために、
アンコールであることばを発言し、そして、「願い事」を演奏してくれはりました。
クボ君の魂に触れ合うように、達身さんのギターも鳴り響いていました、クボ君の声のように。
そう、わたしは永くメレンゲの担当をさせて頂いて、クボ君とも実に長い。
だから、少しだけ、彼のことをよく知っています。

一番最初に引用した空海ように、彼は「自分の行動についてはすぐれた劇的構成力をもって」いるのかもしれません、
でも、すごかった、のです、表現が爆発しました。
わたしは現場担当なのに、やっぱり袖で泣き崩れそうになりました。お客さんもたくさん泣いていました。

上のボルヘスが言ったように、「言葉の紛糾と矛盾の魂」の積み重ねが昨日のできごとに数珠つながり、そして、爆発。

夏の始まりのツアー以来、この数ヶ月、嘘と失敗ばっかりで、苦しみは苦しみでしかない、
わたしの気持ちはもはやカオスだったのですが、きのう、ぜんぶが救われました。

わたしはすごく音楽が好きで、その為に生きています。
仕事も家族も生活もそう、
もし仮に納得がいかないことがあってもなんとか生きていく、いやなことのためにいきていません。
だから、思うのです。
24時間経った今もこうして思い出して、きのうのできごとがわたしの救いになったことを、
同時に、
彼のことをいつのまにか友としても大切なひとであるということだけにでなく、
彼自身が力強く、音楽が魂の解放として、日々を送り、
そういう意志で彼が音楽を選び続けていることに、
心から感謝しています。

その場の空気ぜんぶ振るわせて伝わるライブは、あきらかになにかが違います。
ごまかせないから嘘がつけません。そして、
かなりのスキルと間や情感が求められます。
そういうことをまたわたしは教えられました。
これは音楽や音楽家をとりまく人々にとっても同じことです。
いわゆるとりまきが駄目では駄目です、ってわたしが大好きな先輩に言われ続けてきました。
大人として未来へ繋げなければいけないことが、たくさんあるなぁと考えさせられること数多あり。


生きていてよかった、って思えることによって、また、
友に、「「いっそ、さぁ」といいだすことができます。

昨日のできごとのおかげもあって、また日々精進していきます。
ありがとう、クボ君。
「まだまだつづきますね」。

0 件のコメント: